日本では近年科学者の海外流出が深刻な問題になっており、日本の研究環境における問題点を論じるメディアの報道などを目にする機会も増えてきました。そういった文脈においてよくキーワードとして登場するのが「研究費」ということで、今回は中国における主要な研究助成プログラムに関して紹介してみたいと思います。
「研究費」とは?
大学教員の仕事というのは専門分野やポストによってそれなりに異なりますが、基本的には「教育」と「研究」です。前者は主に授業と指導教官としての学生の指導、後者はざっくり言えば研究をしてその成果を論文や講演といった形で世間に発表することです。
教育に関してはまあいいとして、研究をするためには基本的に予算、要はお金が必要になります。例えば化学者や生物学者であれば実験をするのに必要な機材を購入する必要がありますし、一見紙とペンで仕事ができそうな数学者であっても、高性能なコンピューターや書籍の購入が必要になります。また、分野を問わず、学会や国際会議に参加するためには旅費が必要になりますし、共同研究のために共同研究者がいる研究機関を訪れたり、逆に自分がいるところに来てもらったりするのにもお金がかかります。
そんな研究費ではあるのですが、基本的には研究者自身が国や民間の科学研究費助成事業を行っている機関に申請して獲得するしかありません。申請すれば必ずもらえるというものではないため「競争的資金」などと呼ばれています。申請書は当該分野の専門家に審査され、一部が採択されて助成金(日本では主に科研費と呼ばれている)がもらえます。助成金にも色々と種類があるため一概には言えませんが、助成金を獲得できているかどうかでその研究者の優秀さはある程度判定可能です。特に理系の学部生の方は、卒研配属や大学院進学の際の研究室選びの参考にすると良いかもしれません。なお、日本では日本学術振興会の科学研究費助成事業が一般的で、助成を受けている研究者の論文の謝辞欄にはその旨が明記されているはずです。
中国の科学研究費助成機関「NSFC」とは?
私が現在暮らしている中国にも日本学術振興会に似た組織があり、「中国国家自然科学基金委員会」(National Natural Science Foundation of China、略称は「NSFC」)と言います。理科系の研究者はこのNSFCの助成プログラムに応募し研究費の獲得を目指すことになります。
NSFCの場合、申請は基本的に年に1度だけ可能で、締め切りは3月(今年は3月20日)に設定されています。ですから、中国の大学では年が明けた頃から徐々に担当部署から教員への研究費申請関係の連絡が増え、教員は2月3月は申請書類の作成に追われることになります。応募は義務ではないのですが、この研究費獲得状況は大学ランキング等にも影響し、間接的に大学側の経営状況にも影響を与えるため、大学からは応募をかなり強く促されます。
また、研究者個人にとってもこの研究費を獲得できるかどうかは非常に大きな意味を持ち、例えば昇進にも大きく影響します。昨年若手研究者用の助成金を獲得した同僚の講師はそれを機に准教授に昇進しました。彼が将来、全年齢が対象の額の大きな助成金を獲得できれば、教授への昇進の道も開けるでしょう。NSFCの助成金の獲得は、中国にいる理科系の大学教員にとっては避けては通れない、昇進のためのある種の必要条件のような存在になっているのです。
ちなみに、中国には他にも省政府の科学研究費助成事業なども存在するのですが、NSFCのものと比べると金額が小さく、どちらかと言うと、NSFCの科研費の獲得が難しい層向けといった感じのものになっています。
NSFCの研究費助成プログラムの特徴
NSFCには様々な助成プログラムがあり、金額や年齢制限など色々と違いがあるのですが、最も一般的なのは「面上項目」(日本学術振興会の科研費で言うところの「基盤研究」みたいな位置付け)です。年齢制限もないため、大学教員や博士号を持っている者なら基本的に誰でも応募が可能で、採択されれば4年間助成を受けることができます。このプログラムに関する昨年(2020年度)の助成実績は以下のようになっています。
- 採択数:19,357件
- 合計助成金額(直接経費):1,112,994万元(約1,857億円)
- 1件あたりの平均助成金額(直接経費):57.5万元(約952万円)
- 平均採択率:17.15%
業界関係者以外がこれらの数字を見てもピンとはこないかもしれませんが、まず採択率が日本学術振興会の科研費に比べてだいぶ低いです。比較対象次第で変わりますが、ざっくり言うと10%程度低いです。
一方、金額に関しては、これもやはり何と比較するかによりますが、日本よりは高めに設定されていると言えます。例えば日本では、実験をする必要のない数学者や理論物理学者であれば、「3年間で直接経費200~300万円程度」が一般的です。しかしながらNSFCの場合は研究分野による助成金額の違いが小さく、それらの分野でも「4年間で直接経費約950万円」がもらえてしまいます。
したがって、日本学術振興会の科研費に比べ、NSFCの助成金は獲得がだいぶ難しい代わりに金額が大きいと言えます。要は、中国ではいわゆる「選択と集中」が徹底されているのです。
日本よりも中国の方が研究環境は上?
よく日本のメディアは「日本の研究費は低過ぎる」、「日本の研究環境は悪い」などと報道しているわけですが、私個人の意見としては、必ずしもそうとは言えないと思います。
研究費の獲得自体はどう考えても中国の方が困難です。もらえる額はその分大きいわけですが、採択率17%の研究費なんていうのはかなり優秀な人しか獲得できません(獲得の見込みがないような人はそもそも応募すらしないため)。
その点、日本学術振興会の科研費であれば採択率が30%近いものもありますから、金額はある程度抑えつつも比較的広く研究者の支援をしているのだと言えます。
ですから、研究環境に関して日中のどちらが上かと問われれば、それはやはり当人の能力次第ということになります。最低でもNSFCの「面上項目」の助成金を獲得できるくらい優秀な研究者であれば、多分中国の方が研究環境は上だと思います。そういった人材の場合、大学側も授業数を減らしたりして研究時間の確保に積極的に協力してくれますから。ただ、それを獲得できないようなら、研究環境の面で何かメリットがあるということはないかと思います。
良くも悪くも中国というのは格差社会の極みのような国であり、分野を問わず競争の激しさは日本の比ではありません。今回は中国の大学教員の給料に関しては詳述しませんが、地方の大学の講師と大都市のトップ大学の教授では給料は10倍くらい違います。これは日本では考えられないことです。ですから、優秀な人ほど中国に来るとメリットを享受できるということになるわけですが、それはまさに中国政府の狙いでもあるわけで、本当に政治が上手い国だなと私はいつも思っています。
日本が増やすべきは研究費ではなくポスト
中国では大学教員自体はまだ足りていないので、博士号持ちの研究者が職を得ること自体は日本に比べれば簡単です。ただ、低いレベルのポストで雇ってもらったところで給料は非常に低いわけで、生活水準を上げたいと思ったら研究費を獲得して昇進するしかありません。また、比較的簡単に雇ってもらえるというだけで、基本的に全ての大学教員には任期が設定されていますから、解雇(正確には雇用契約の更新拒否)のリスクも常にあります。
一方日本では大学教員は基本的に終身雇用ですから、一度雇ってもらえさえすれば定年まで一切研究をしなくても給料をもらい続けることができます。例えば、よほど過去に輝かしい業績がない限り、直近5年間に論文を1本も出版できていなければ中国なら解雇されますが、そんな大学教員は日本には山ほどいます。ですから、日本で大学教員になると楽ができるわけですが、ポストを取るのがとにかく難しい。私も含め、日本で職が得られないために現在海外で働いている日本人研究者は非常に多くいます。
これは私の個人的な意見ですが、日本が科学分野における存在感を回復するために必要なのは研究費の増額ではなく、ポストを増やすことなのではないでしょうか? 既に安定した生活を手に入れ安心しきっている日本の研究者たちへの科研費を増額したところで何か良いことが起きるとは思えません。我々のように日々強烈なプレッシャーの中で生活している海外勢を呼び戻すことにその予算を使った方が良いのではないでしょうか。世界と戦うためにはやはり「数」も重要になるわけですが、若手研究者を冷遇してどんどん海外に流出させてしまっている現状はもったいないとしか言いようがありません。私も学位を取得したのは日本の大学であり、そこで学んだことを中国に流出させることで私は食い繋いでいるのです。日本政府は自ら価値のあるものを海外に垂れ流しているわけで、これを愚の骨頂と呼ばずに何と表現すれば良いのでしょうか?
最後に少々話がズレてしまいましたが、この記事を通して少しでも我々の業界に関心を持ってくださる方が増えたら嬉しいです。
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